はじめまして、あるいは、こんばんは。リレーブログ第八回目をお送りします、サナギトウカです。

今回、紹介させていただくのは、中央公論社C★NOVELSからファンタジー小説『煌夜祭』。著者である多崎礼先生のデビュー作であり、同レーベルでの第二回C★NOVELS大賞に輝いた傑作です。現在では、『本の姫は謳う(全四巻)』『夢の上(全三巻、短編集一巻)』『八百万の神に問う(全四巻)』の三つのシリーズを完結させており、実力派の作家と考えてよいでしょう。もちろん、どれもとても面白い小説です。

ところでこの『煌夜祭』、昨年には中公文庫で文庫化(しかも書き下ろしの短編付き!)もされて、kindle版も出版されておりますのでお求めやすくなっております。この夏のお供にぜひ、どうぞ。

 

さて。

あなたにとって、物語とはなにでありましょうか。

ときに激しく、ときに優しく読む人のこころを揺さぶることばの連なりか。つらい現実での疲れを慰め、また人生の手本となる哲学を示すものか。自分ではとうてい経験することのできない彼方のことを追体験できる仮想の窓のようなものなのか。あるいは、もっと別のなにかかも知れない。いずれにせよ、読み手に対してなにごとかを伝えてくる媒体であることは間違いありません。

物語と一口に言っても、古くは、歴史と神話、お伽話は同じものでした。母から子へ、あるいは年長者から若年者へ、はたまた旅人が遠く離れた地まで運んでゆくこともある、受け継がれてゆくもの。口によるものにせよ文字によるものにせよ、いつしかそれらは峻別されましたが、担い手の想いを通じてなにかを記録し、誰かへと伝えるための媒体であることになんらの変わりはありません。小説『煌夜祭』は島から島へ旅し物語を伝え歩く語り部たちの、そして、その時代を生きた人々の物語です。

そろそろ枕はここまでにして、キーワードでの紹介と参りましょう。今回は、【魅力的な世界観】【発見の楽しみ】に加え、前回から引き継いだ【心を揺さぶられる寂しさ】、この三つのキーワードでこの作品を語らせていただきます。

 

①【魅力的な世界観】

 

ファンタジー小説で最も重要なことの一つは、魅力ある世界観の設計であると、あえて言いましょう。それを踏まえた上で、この作品の世界観は素晴らしいものです。
『煌夜祭』の世界観や文化はおおむね中世ヨーロッパ風のものと考えて差し支えありませんが、ある二つの点では大きく異なります。一つは、十八諸島と死の海という地理。もう一つは、冬至の晩に現れる人喰いの魔物。この二つが軸となって、作中の世界観と文化に大きなアクセントを加えています。

物語の舞台である十八諸島は、生き物の住めない酸の海に浮かぶ十七十八の島々からなります。中心にある一つの島の周りに、それぞれ二つ・八つ・七つの島々が三つの同心円のかたちに近付いては離れて周回している……なんとも不思議な世界です。(※数が合わないのは仕様です。きちんと作中で説明されますよ)算数のできない担当者はケジメされました。

……既読であるこちらからするとそのように説明したいのが山々なのですが、「未読の方にそれは少々厳しかろう」と脳内で突っ込みが入ったので、わかりづらいと思った方にはもっと身も蓋もない解説をいたしましょう。こちらは一言で済みます。つまり、塩素の電子配置をイメージしてそのまま結構です。それでもわからなければ、巻頭に絵地図がついておりますのでごあんしんください。聞きましたか奥さん、絵地図ですってよ! ファンタジー読み垂涎のあの!

話が脱線しました。

もちろん、そんな海に船が漕ぎ出せるはずもないので、島から島への移動はもっぱら飛行船で行われます。ただし、動力は日に何度か島から吹き出す蒸気を帆に受けることで賄っており、その蒸気も日に定刻通りの何便かに限られて、いつでも行き来できるというわけではありません。

スチームパンクかよ! とお思いになるかもしれませんが、その答えはイエスでありノーです。というのも、作中世界の工業力はマスケットすらないレベル。蒸気の噴出はむしろ自然現象のようなものとして捉えられており、特別に蒸気文明を取り扱うようなことはないからです。もっとも、ないだけで想像の余地は十分に残されていますし、むしろそれを仄めかすような描写すらあるので、そのあたりを考察してみるのもよいでしょう。この他にもまだある、そうした「奥行き」もまたこの世界観の魅力の一つです。

また、この地理的・技術的条件が作中で重大な伏線ともなるのですが、さすがにネタバレになりますのでこれ以上は伏せておきましょう。ただ言えるのは、「こんな世界だったら、人々やその社会はどのようになるだろう?」というファンタジーの醍醐味とも言えるそれがここにあるということです。デビュー作にしてこの実力、私事ながら、一発でファンになりました。

さてそんな十八諸島ですが、ここには人間や動植物とは別にある生物が存在しています。人から生まれながら人でなく、日の光に焼かれ、銀に触れれば傷を負う、人を喰らう異形の魔物が。彼らが正体を表すのは冬至の晩に人を喰らうときだけですが、一つの例外を除いて不死であり、動けなくなることはあってもいずれ必ず復活します。魔物としての本性を表しているときの彼らは凶にして暴、猛獣並みの力でもって荒れ狂う、十八諸島に住まうもののうち二番目に危険な生物と言えるでしょう。
しかしながら、彼らのメンタリティは人間のそれと全く同じ。感受性がゆたかで、悲しみ、怒り、喜び、また人を愛しさえするその感情は限りなく等しいものとして人間に寄り添います。

小説のタイトルでもある煌夜祭は、冬至の晩に領主の館へ集った語り部たちがそれぞれ持ち寄った話で語り明かすという祭りです。煌夜祭というのは魔物にまつわるある出来事をきっかけに始まった祭りなのですが、そのことも含めて、十八諸島にて人間と魔物がどのように歩んできたかの伝承と歴史がこの祭りに集ったある二人の語り部によって語られてゆき、そして最後には……。

彼らが語るはじめの何編かのうちは、いわゆるお伽話に見えますが、彼らの語りは進むにつれてその内容はどんどんと現在へと肉迫してゆきます。それはあたかもお伽話や神話が歴史へと移り変わってゆく様を再現するかのようであり、まさに「物語」というものを体現する構成なのです。
十八諸島とはどのようなものなのか、そこに暮らす人々はどのようなのか、魔物とはいったいなにものなのか。はじめは闇夜のように見通せなかった世界が、物語を一つ読み進めるごとに明かされてゆく感覚はえも言われぬものですよ。

②【発見の楽しみ】

 

物語に触れている時、「ああ、そういうことか!」と展開や伏線の絶妙さに膝を叩いた経験はおありでしょうか。

この作品は煌夜祭に集った二人の語り部、ナイティンゲイルとトーテンコフが交互に語る短編の物語の連なりによって構成されています。もちろん、どの物語も同じ世界観を共有しており、登場人物しかり事件しかり、すべてはなんらかのかたちで繋がっています。ただし、それぞれの物語が独立していることも確かであり、それぞれの関連性をことさら説明してくれるようなことはありません。物語と物語との幕間に語り部がいくらかの注解を入れることはあるとはいえ、です。

もっとも、これが欠点になるかというとそんなことはありません。それどころか、むしろ美点であるとすら言えます。なぜなら、小説『煌夜祭』の面白みは、そうした行間となる部分を読者であるわれわれが自分で考えて関連付けることができるという点にあるからです。物語に意味を見出すのはあくまでわれわれ読者であるということを、『煌夜祭』は思い出させてくれます。そして、その「発見」こそが物語を面白くするのだということも。

「この人物はさっきも登場していたぞ」「この地名はあの物語の舞台になった場所だ」「そうか、そうだったのか!」――はじめはただのお伽話だと思っていたものが、いつのまにかすべては一繋がりだったのだと気付いたとき、ただの断片集ではない『煌夜祭』としての全体を俯瞰することができます。夜空に星座を「発見」するかのように物語という点と点を綴り合わせてゆくとき、そこには無上の楽しみがあることでしょう。

もちろん、それだけで終わらないのが『煌夜祭』なのですが……これについては次のキーワードで語ることにいたしましょう。

③【心を揺さぶられる寂しさ】

 

さきほども少し触れましたが、『煌夜祭』はナイティンゲイルとトーテンコフという二人の語り部による七編の物語と、間に挟まれる二人の会話とで展開してゆく小説です。

ところが、祭りの席でありながら、それを聞く者はお互いのほかには誰もいません。彼らが集ったのは荒廃した島の、それも廃墟となった領主館だからです。彼らが語る物語は豊かで光に溢れているにも関わらず、彼らが座る場所はそれとは似ても似つかない暗い滅び果てた廃墟。話を一つ終えるごとに視点は現在の廃墟となった島へと帰ってきて、その明暗の対比は際立ちます。光と闇、人間と魔物、過去と現在……相容れないものが融け合い一つになってゆくカタルシスには、しかし一抹の寂しさが同居しています。

既に終わってしまった過去の出来事を語るという性質上、それは読者にとっては当然のことではあります。仕方のないことなのかもしれません。けれども、作中の世界で生きる人々にとって、それは限りなく痛みをともなうものであるはずです。物語が進むごとに増してゆく悲壮さ、確かにあったはずの希望、その果てが廃墟となった領主館での二人語り……いったい、なにがどうしてこうなったのか。ページがめくられてゆくごとに明らかになる残酷な過去が胸に刺さります。

二人が集った領主館はなぜ廃墟となったのか、二人がそれらの物語を知っているのはなぜなのか、ひいてはナイティンゲイルそしてトーテンコフの仮面の下にはいったい「誰」がいるのか……その素顔が明かされたとき、そこには驚きよりも納得があり、そして静かな悲しみが広がります。語り部が仮面を脱ぐ瞬間は祭りが終わるときの虚脱感にも似て、それはあまりにも寂しい。

もしあなたが『煌夜祭』を読んだなら、物語と物語との幕間に描かれる二人をもう一度だけ見つめなおしてみてください。きっと、そこに込められた想いに気付くはずです。